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 齊藤
通称:代表


--代表略歴--
1967年
茨城県生まれ
略歴
どちらかと言えば、堅い両親に育てられました。
それでも周囲の環境のせいか?今で言う半グレ的存在の時期もありました。
しかし割と早い時期に卒業し、ナンパ道へ・・・。

初めて社会人になった時分は何と!プログラマー志願。
部長から『勢い』を買われ、東大卒エリート軍団集まるの昭○電工の当時システム開発部門へ配属。
ここで人生初の挫折を味わい、25の時、身内のコネクションで役所の内定を貰っていたにも関わらず、
大金を積んで来た人間に譲るハメに・・・。
あまりの馬鹿らしさから『寄せ集め』の集まる、某大手運送会社へ転勤。
現場の荷物処理の下積みを3ケ月行い、真冬に上半身素っ裸になり気合いを入れて頑張りました。
とにかく目立ちましたので、上層部から気に入られました。

後にクレーム担当(主にヤバイ系の人間)を経て、当時の最年少業務責任者となる。
しかし新店立ち上げ時の連日の激務(朝6時から深夜3時迄)に体が耐え切れず、
遂に居眠り運転で川に転落。
一命を取りとめたものの、職場復帰が厳しい状況に追い込まれた。

時をほぼ同じくして宅建を取得。
一部上場業界最大手の某不動産会社へ転職。
ここでも上層部にとても可愛がられ、営業から異例の事務方へ異動を命ぜられた。
その後本社へ栄転。
しかし管理職目前にして、やらかしてしまい退職。
真っ黒けっけ人脈』との交際が招いた結末でした(笑)
今となっては笑い話です。

やむなく独立→不動産仲介・競馬サイト・『
何でも屋』となる。

座右の銘は 
転んでもただでは起きぬ


本格的に競馬に触れるようになったのは実は割と遅く、20代中盤から。
それよりも楽しい事の方が他にあったからです。
しかした購入した10倍程度の単勝が当たり、競馬が面白くなって行き、
当然のように賭け金、払戻金が増加して行くにつれ「
馬券購入」が大好きな、今で言う『馬券師』となる。

世間が不景気になった90年代前半、逆行するかのように大手運送会社への転職をキッカケに個人収入が増加した事や、独身の身であった事も手伝い、馬券的にピークでした。
大勝負数知れず・・1Rに最低5万、普通に1〜20万、大勝負50万。
おおよそこんなところです。

ある年の夏の新潟で行われた障害戦未勝利戦で約300万の払い戻しを受けたのをキッカケとして軍資金を増やす事に成功。
G1レースを中心に大勝負していた当時の自分には、平地の障害戦でのあの払い戻しは衝撃でした。

G1レースの快心の一撃は古い話ですが、97年にメジロドーベルが出走したオークス。
全く注目されていなかったナナヨーウイングの長距離血統が炸裂し13番人気の超低評価を覆しての万馬券(馬連12550円)的中!
そしてもう一つは同じ96年の日本ダービーで7番人気フサイチコンコルドから馬連1点20万円勝負で3420円的中!払戻金で当時出たばかりの新型ソアラの最上級グレードを購入。
ポケベル全盛期に車載電話片手に週末は錦糸町ウインズへ出没する日々を送っておりました。
そうそう!タイキブリザードが勝った安田記念は2着で5番人気ジュニュインの買い情報があり、これを1点目でぶ厚く仕留めた事も昨日の事のように思い出されます。

年間3800万もの払い戻しを受けた事があった一方、逆に2000万以上負けが込んだ事もあり、
結婚を期に大勝負はしなくなりました。

その後の大口払い戻しは古い会員様に実馬券を公開したデルタブルースが勝利した菊花賞、
そして翌週行われた天皇賞秋の2週連続万馬券が代表例です。

トレセン同志会を立ち上げ、2003年1月から会員様の募集を行い現在に至ります。
予想屋になってからもアグレッシブに動いた動いた!
いわゆる『
予想屋バブル』の時代でもあった為、関東、関西問わず、同業者とは揉めに揉め、
深夜にまで電話が掛かってくる事もありました。
それでも私は一歩たりとも引いた事がありません!
だからこそこうして今も生き残っている部分が往々にしてあります。
近年は競馬予想業界全体の若返りが進み、全体的に質が上がった事を肌で感じています。
良い時代になったものだと思う今日この頃です。

しかし、予想屋になると2足の草鞋は履けません。
太好きな馬券購入を控える事にして、会員様に儲けて貰ってこそナンボと言う精神で、
これからも新しい事にチャレンジしていく所存です。


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